アーカイブ

上手に使いこなす秘訣

総義歯を上手につかいこなす秘訣はあるだろうか。そんな質問をよくされるが、わたしはいつも、「それは経験と慣れしがありませんよ」と答えることにしている。はじめて義歯をいれた人は、異物感を感じなくなり、顎の粘膜や骨にものをかむときの負担能力がでてくるまでには、どうしても一定期間の経験と慣れが必要であるからだ。よくできた義歯は、いれてから一〜二週間もすると、自然に慣れてくるものだ。無意識のうちに訓練され、顎の粘膜や周囲の筋肉と義歯のあいだの調和がとれてきて、ものがよくかめるようになってくるからである。もちろん、異物感もすくなくなってくる。自分のベストをつくしてつくった義歯が、患者の口によくなじみ、患者に感謝されることは、わたしたち歯科医にとっては、最大のよろこびである。だから、よい結果を得るために、わたしたちは、顎関節の運動を綿密に測定し、それを患者の顎関節とおなじはたらきをする機械にうつして、人工歯をならべて義歯をつくる。こうしてつくった義歯が、口のなかにいれれば十分にものを咀嚼でき、しかも生物学的な観点からみて、顎や周囲の筋肉にたいしてなんの障害もおこさないようなものであれば、申し分ないのである。わたしたち歯科医は、こういった理想の義歯の実現を目標にして、つねに研究をつづけているのである。わたしたち歯科医が理想としている義歯は、一つの義歯で、咀嚼、外観、発音という三つの機能をすべて満足させるような義歯である。しかし、こういう義歯をつくることは、現状ではまだきわめて困難であり、前途も多難である。したがって現状では、義歯は、その用途によって二つあるいは三つのものをつかいわけしなければならない。映画やテレビのタレントのなかには、撮影用と食事用の二つの義歯をつかいわけている人もたくさんいる。これは、ものを咀嚼することに主眼中をおくと、どうしても外観を犠牲にしなければならないし、その逆に外観を重視すれば、咀嚼するという機能を二義的、三義的なものにしなければならないからである。したがって、よい総義歯をつくるためには、患者の側がどのような義歯を望んでいるかということを、その職業とか生活といった全体的なことを考慮してよく話し合ってから決めることが必要である。そうでなければ、技術的にはよくできている義歯であっても、ほんとうに患者の生活をもとに回復させるということはできないからである。患者にしてみれば、その用途によって二つも三つも義歯をつくって、それをつかいわけるようにすることは、つくるまでの時間と費用を考えれば、たいへんな出費をしいられることになるし、またつかいわけるのもかなりめんどうくさいことでもある。だから、総義歯をつかう人はどうしても歯のはたすべき機能のどこかの部分を犠牲にし、がまんしなければならないということになる。わたしたち歯科医は、患者のそういう不便さをなんとかしたいと日夜努力し研究をつづけているのだが、たとえば眼科の場合でも、遠近両用メガネというものができても、なかなかうまくはいかないように、現在のところは成果があがっていない。わたしたち歯科医の最大の課題の一つが、ここにあるといっていいのである。